大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

宇都宮地方裁判所 平成3年(ワ)166号 判決

主文

一  被告らは、原告に対し連帯して金五五〇万円及びこれに対する平成二年二月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを四分し、その三を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は主文第一項に限り仮に執行することができる。

理由

第一  請求

被告らは、原告に対し連帯して金六二五八万四八四一円及びこれに対する平成二年二月六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、上腹部悪性腫瘍(神経芽細胞腫)のため入院していた幼児(後記本件事故当時三歳五か月)が、病室のベッドから転落し、頭蓋内出血を引き起こして死亡したケースで、幼児の母親が原告となり、幼児を看護していた看護婦と同人の勤務先病院の開設者である学校法人を被告として、看護婦に転落防止につき不適切な措置が、学校法人に右看護婦の使用者としての責任及び神経芽細胞腫の脳内転移を見落とした過失があつたなどと主張して、不法行為に基づく損害賠償を求めた事案である。

一  争いのない事実等

1  当事者

(一) 原告は、訴外甲野一郎(昭和六一年五月二日生、後記本件事故当時三歳五か月、以下「一郎」という。)の母であり、訴外甲野太郎(以下「太郎」という。)は一郎の父である。

(二) 被告学校法人自治医科大学(以下「被告大学」という。)は、栃木県河内郡南河内町大字薬師寺三三一一番一において自治医科大学附属病院(以下「被告病院」という。)を開設し、同病院の看護婦として、被告乙山春子(以下「被告乙山」という。)を雇用していた。

2  本件事故と一郎の死亡

(一) 一郎は、昭和六三年四月五日、上腹部悪性腫瘍(神経芽細胞腫)で被告病院へ入院し、同年七月五日、右副腎神経芽細胞腫摘出手術を受けたが、その後数回の入退院を繰り返し、化学療法を受けた後、平成元年一〇月一七日、再度、残存腫瘍摘出のための開腹手術を受けたところ、上腹部に腫瘍は認められなかつた。

(二) 被告乙山は、平成元年一〇月二五日午後一時二五分ころ、被告病院小児科病棟三一七号室の一郎のベッド(以下「本件ベッド」という。)上で入院中の同人にせがまれ、本を読んでいたが、三一六号室の患者の処置を手伝うために本件ベッドの転落防止用安全柵(以下「本件安全柵」という。)を中段まで引き上げたうえ、三一七号室を出て三一六号室へ向かつた。その後間もなく、本件安全柵が落下し、一郎がピータイルの床上で泣いているのが発見された(以下「本件事故」という。)。

(三) 一郎は、本件事故によりピータイル張りの床に頭部を打ちつけた衝撃などによつて、右硬膜下血腫などの傷害を受けたが、本件事故後の経過は次のとおりである。すなわち、

(1) 被告病院牧野駿一医師(以下「牧野医師」という。)が本件事故直後、一郎を診察した際、同人には腫脹や皮膚損傷などは認められず、また、頭部X線撮影によつても頭部骨折は認められなかつたが、同人は、撮影途中で嘔吐し、撮影終了後帰室したころから容体が悪化し、顔面蒼白となり、次第に意識レベルが低下して呼吸が浅表性となつた。

(2) そのため、被告病院は、一郎に酸素投与を始め、静脈路を確保したうえ、CTスキャンによる頭部撮影を実施した結果、同人には脳内出血、急性硬脳膜下出血、くも膜下出血が認められ、全身状態不良のため、午後二時四五分、同人をICU(集中治療室)に収容し、気管内挿管を行い、レスピレーターによつて呼吸を確保し、ラボナール療法を開始した。また、同日午後四時三五分から硬脳膜下血腫及び脳内血腫除去手術を実施し、血腫除去手術は午後六時四五分に終了した。

(3) しかし、一郎は、その後意識を回復せず、容体の改善のないまま平成二年二月五日午後四時三五分に死亡した。

(4) 一郎が死亡したのは脳血腫が生じたことに伴い、脳浮腫が発生し、それが脳組織を圧迫し、その結果、脳組織全般が破壊され、脳死状態となり、内蔵全体に異常を来たし(特に腎不全状態に陥り)、それが心不全に進行したためである。

二  主要な争点

一  被告乙山の過失

被告乙山に本件安全柵を上段にセットし、かつストッパー(止め金)が掛かつたことを確認すべき注意義務違反が認められるか。

2 被告大学の過失ないし責任

被告大学に被告乙山に対する使用者責任(民法七一五条)の他、神経芽細胞腫の脳内転移を見落とし、処置を怠つた過失があるか。

3 本件事故と一郎の死亡との因果関係の有無

4 損害

三  争点に関する当事者の主張

1  争点1(被告乙山の過失)について

【原告】

本件事故は、本件安全柵のストッパー(止め金)の掛かりが不十分であつたために安全柵が落下して発生したものであるところ、被告乙山は、幼児である一郎を看護する者として三一七号室を離れるに際し、本件安全柵が落下しないように安全柵を最上段まで引き上げてストッパーを掛け、ストッパーが掛かつたことを確認したうえで、その場を離れるべき注意義務を有していたにもかかわらず、これを怠り、ストッパーが掛かるまで安全柵を押し上げず、止め金が掛かつたことを十分確認しないまま、その場を離れた過失がある。

【被告ら】

被告乙山は、本件事故発生当日午後一時過ぎから一郎にせがまれ、三一七号室で片方の安全柵を下げた同人のベッドで本を読んでいたところ、隣室の三一六号室で患者の包帯交換を始めたことから、本件安全柵を中段まで上げ、柵を揺すつて柵が下がらないように固定されていることを確認したうえ、包帯交換を補助すべく隣室へ向かつた。

同被告は、数分後、誰かが落ちたような音がしたので、隣室の三一七号室をガラス越しに見たが、一郎がベッド上に見えないので、包帯交換を中止し、三一七号室へ戻つたところ、一郎は床にうつ伏せの状態で泣きながら走き上がろうとしていた。なお、本件事故後、本件安全柵が降りていたことが確認されているが、柵が降りた原因は不明であるし、一郎がベッドから転落したことも否認する。

2  争点2(被告大学の過失ないし責任)について

【原告】

(一) 被告大学は、被告病院を開設し、被告乙山を雇用していたところ、本件事故は同被告の前記過失に基づくことは明らかであるから、被告大学は、民法七一五条により、被告乙山の行為によつて被つた原告らの後記損害について賠償すべき責任がある。

(二) 仮に後記のとおり本件事故当時、一郎に神経芽細胞腫の脳転移が認められたとしても、被告病院は、医療専門の単科大学附属病院であつて、その医療水準は全国的に見ても高いレベルにあつたのであるから、一郎の頭部CTスキャン検査を行うなどの方法によつて腫瘍の脳転移を早期に発見し、摘出手術を行うべき注意義務を負つていた。にもかかわらず、被告病院は、本件事故に至るまで副腎の腫瘍の脳内転移に全く気づかなかつたうえ、CTスキャン検査等そのための検査も特段行つていなかつたのであるから、その見落としは被告病院の過失というべきであり、同病院開設者である被告大学は、いずれにしても一郎の死亡について全責任を負うべきである。

【被告ら】

被告らは、右過失の主張を否認したうえ、次のように反論した。

(一) 争点1に関する被告らの主張と同旨。

(二) 本件事故当時の専門医師における医療水準としては、神経芽細胞腫の脳実質内への転移はないとされていたから、本件事故前に腫瘍の脳内転移を診断していなかつたとしても被告病院に過失はない。

3  争点3(本件事故と一郎の死亡との因果関係)について

【原告】

(一) 一郎は、本件事故により頭部を強打した衝撃によつて頭蓋内出血を起こし、脳内圧力が亢進して死亡したものであるから、右衝撃さえなければ一郎の死亡を回避できたというべきであつて、本件事故と一郎の死亡との間には因果関係がある。

(二) 神経芽細胞腫の脳内転移と出血との関連

(1) 平成元年一〇月一七日の二度目の開腹手術の際、一郎の腹部腫瘍が消失していることが確認されていることや本件事故発生前までの検査結果からも同人に神経芽細胞腫の転移を疑わせる所見はなく、さらに臨床的にも転移を疑わせる症状は何ら表れていないのであるから、一郎の右副腎原発性神経芽細胞腫は手術及び化学療法が功を奏したものと考えられ、仮に神経芽細胞腫の脳への転移があつたとしても、それが進行していたとは考え難いうえ、転移部分の脳組織が危弱になつていたことを示す根拠はないから、脳挫傷と無関係に突然、血腫が生じたというのは極めて不合理である。

(2) また、頭部を強打した後に急性硬膜下血腫や脳内出血が起きることは、しばしば見られる通常の過程であり、その臨床的症状は転落直後のCTスキャン検査の結果、右硬膜下血腫と脳内血腫が認められていることに合致している。

(3) よつて、神経芽細胞腫の脳内転移と出血との間には関連がない。

(三) 腫瘍内出血と死亡との関連

仮に神経芽細胞腫の脳内転移及び腫瘍内出血が認められたとしても、前記のとおり被告病院が本件事故前に右転移を発見し、摘出していれば一郎の死亡を回避できたというべきところ、被告病院には右転移を見落とした過失があるから、本件事故及び神経芽細胞腫の脳内転移の見落としと一郎の死亡との間には因果関係がある。

【被告】

本件事故後の開頭手術の際、一郎の血腫周囲の変色した脳組織を検体として三か所から採取し病理検査を実施した結果、神経芽細胞腫と判明した。したがつて、一郎は、神経芽細胞腫の脳内転移により失神発作を起こしベッドから転落した可能性もあり、また、仮に同人がベッドから転落したことを契機に、脳内血腫、硬膜下血腫が生じたものとしても、それは脳挫傷によるものではなく、脳組織に神経芽細胞腫が転移していたため転移部分の脳組織が脆弱になつていたことから生じたに過ぎない。

なお、転移した神経芽細胞腫の予後は不良である。

よつて、一郎が仮にベッドから転落したとしても、それは血腫の契機に過ぎず、神経芽細胞腫の脳内転移が脳内出血、血腫の原因であつたというべきであるから、本件事故と一郎の死亡との間には法的因果関係がない。

4  争点4(損害)について

【原告】

(一) 一郎の損害

(1) 逸失利益 四一五八万四八四一円

一郎は、死亡当時満三歳九か月の男子であり、本件事故により死亡しなければ一八歳から六七歳までの四九年間就労が可能で、一八歳から六七歳まで稼働したとして男子労働者学歴計の年平均賃金四七九万五三〇〇円を取得できたところ、同人の生活費として右取得の五〇パーセントを控除し、新ホフマン式計算(新ホフマン係数一七・三四四)によつて法定利率による中間利息を控除して死亡時の一時払額に換算すると一郎の逸失利益は次のとおり四一五八万四八四一円である。

4、795、300×0・5×17・344=41、584、841

(2) 慰謝料 一〇〇〇万円

仮に神経芽細胞腫の脳内転移が認められ、かつ被告病院に腫瘍の脳内転移を見落とした過失がなかつたとしても、一郎は、本件事故時点で腹部腫瘍が完全に消失し、転移に関しても異常が全く認められなかつたのであるから、少なくとも一年以上の延命は可能であつたというべきである。

(3) 原告は、一郎の右損害賠償請求権を単独相続した。

(二) 原告及び太郎の損害

(1) 慰謝料 一〇〇〇万円

原告及び太郎は、一郎の手術の成功を喜び、一郎の退院を心待ちにしていたが、突然の転落事故と容体の急変に大きな衝撃を受けた。しかも、被告病院は、本件事故発生後速やかに警察に事故届けをすることを怠り、警察の現場検証(実況見分)は事故の翌々日の一〇月二七日になつてやつと実施された。また、警察の捜査においても、ベッドの安全柵が落下するか否かの再現実権が行われたのは事故発生から一年三か月余も後の平成三年二月一二日になつてのことであり、警察官である太郎に対し、職場の上司が「署長はマスコミに事件が取り上げられるようになることを心配している。」旨述べ、被告病院に対する気遣いをあからさまに表明し、事故発生から三か月近く経過した平成二年一月一八日の時点でも「まだ問題があるから」という理由で被疑者である被告乙山の取り調べを行つていなかつたりするなど不十分な対応がなされているが、これは本件事故当時被告病院院長であつた丙川松夫氏が栃木県公安委員の地位にあり、警察活動全体を監督する立場にあつたことに対して警察側が何らかの配慮をしたものと推測できる。このような被告病院等の不明朗な対応は原告及び太郎の不信感を著しく増幅させた。

(2) 葬儀費用 一〇〇万円

原告は、一郎の死亡に伴い葬儀費用として一〇〇万円を支払つた。

(三) 太郎は、平成三年二月五日、同人の右損害賠償請求権を原告に譲渡した。

【被告ら】

原告の右主張のすべてについて争つたうえ、次のように反論した。

(一) 逸失利益

一郎は、本件事故当時、神経芽細胞腫の脳内転移があり、その予後は不良であるから、逸失利益の損害が生じる可能性はない。

(二) 慰謝料

仮に本件事故と死亡との因果関係が肯定されるにしても、神経芽細胞腫の脳内転移が主たる原因であつたから、慰謝料の算定に当たつてもその事情が十分に斟酌されるべきであり、原告主張の慰謝料額は高額に過ぎる。

(三) 債権譲渡

仮に被告らの責任が認められるとしても、被告らは太郎から債権譲渡の通知を受けていないから、原告は債権譲渡を被告らに対抗できない。

四  証拠《略》

第三  当裁判所の判断

一  争点1(被告乙山の過失)について

1  一郎が本件事故当時三歳五か月の幼児であつたことは前判示のとおりであり、《証拠略》によれば、一郎が本件事故の数日前に地下から三階の病室まで階段で昇る程の回復を見せていたこと、本件ベッドは、金属製柵で周囲を囲まれた横一・〇一メートル、縦二・〇一メートル、床からマットレスまでの高さが〇・六メートル、マットレス上部までの高さが〇・七メートル、柵上端までの高さが一・三一メートルあり、側面両側に中段、上段の二段階にセットできる構造の転落防止用の安全柵が設置されていたこと、安全柵を上段にセットした場合にはマットレス上部から柵上端までの高さが七一センチメートル(一郎の身長が約一・〇二メートルであるから同人の肩付近の高さ)、同じく中段にセットした場合には二七・五センチメートル(同じく一郎の腰付近の高さ)であつたことが認められ、これらの事実によれば、被告乙山は、本件ベッドから離れるに際し、本件安全柵を上段にセットし、かつ、それが完全にセットされたことを確認すべき注意義務を負つていたというべきである。

2(一)  《証拠略》を総合すれば、次の事実(一部争いのない事実を含む。)が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(1) 本件安全柵は、柵左右の下部に設置されたストッパーロッドがベッド本体の左右の支柱にあるガイドレール内に設置されているストッパーロッド受に掛かることによつてセットされる構造になつており、安全柵上部のスライドガイドを引き上げたうえ、安全柵中央下端に設置されている安全柵調節用つまみを手前側(ベッドの外側)に引くと安全柵のバーが回転し、ストッパーロッドがストッパーロッド受からはずれ、安全柵をセットされた状態から開錠することができ、また、それ以外の方法ではストッパーははずれない構造となつている。なお、安全柵調節用つまみは、ベッド上にいる一郎が手を伸ばして引くことは困難な位置にあり、他に本件事故当時安全柵調節用つまみを触つた者がいたことを窺わせる事情も存在しない。

(2) 本件事故当時、本件安全柵側にあるベッド本体の二本の支柱のうち、安全柵側から見て左側の支柱には紐の付いた布製様の袋(以下「本件袋」という。)が掛けられていた。

(3) 本件事故の二日程前に原告が本件安全柵を中段にセットした後、しばらくして柵の上に手を置いたところ、柵が落下したことがあつた。

(4) 石橋警察署員は、本件事故の二日後の平成元年一〇月二七日に本件事故現場の実況見分を行つた際、本件安全柵を中段、上段に三回づつセットする実験を行つたが、いずれの際も安全柵のストッパーロッドはストッパーロッド受に完全に掛かり、その状態で安全柵を上に引き上げたうえ、下に降ろしても柵が落下しないことが確認されている。

また、平成三年二月一二日にも同様に本件ベッド安全柵のセット状況等についての実況見分が行われ、本件安全柵の中段へのセット方法の再現実験が二〇回実施されたが、うち一七回については安全柵は完全にセットされ、うち三回については本件袋が掛けられていた左側のストッパーロッドのみがストッパーロッド受に掛かり、右側のストッパーロッドはストッパーロッド受先端にひつかかり完全にセットされない状態となつたが、この状態で安全柵上部から下方に力を加えても安全柵が落下しないことが確認されている。

(5) なお、被告らは、一郎が本件ベッドから転落したことを争つているが、前掲各事実の他、《証拠略》によれば、被告乙山が三一六号室へ向かつた数分後に、三一七号室で鈍い音がしたため、三一六号室からガラス越しに三一七号室を見ると一郎がベッド上に見えず、本件安全柵が下がつていることに気づき、三一七号室に駆けつけた際、一郎がベッド南東側のピータイル張りの床上にうつ伏せの状態から床に両手をついて泣きながら起き上がろうとしていたこと、本件事故当時三一七号室内にいた小学校高学年の児童二人が一郎が柵によりかかつていたこと及びその後ベッドから転落していたことを目撃した旨被告乙山に話していること、また右児童が本件事故直後「一郎ちやんが落つちやつた。」と述べてナースステーションに知らせに行つていることなどが認められ、これらの事実によれば、一郎が本件安全柵の落下にともない本件ベッドから転落したことは明らかである。

(二)  以上の事実によれば、本件安全柵を中段へセットする計二三回の再現実験のうち、二〇回が完全にセットされ、三回については右側のストッパーロッドがストッパーロッド受先端にひつかかり完全にセットされない状態とはなつているが、それでも左側のストッパーがセットされていさえすれば安全柵は落下しないことが認められることから、本件ベッドの構造上の瑕疵自体から柵が自然落下したと考えることはできず、また、何者かが安全柵調節用つまみを操作してロックを解除した事情も窺うことはできないのであるから、安全柵が落下した原因は安全柵のセット自体が不十分であつたことによると認めるのが相当である(なお、二三回の再現実験のうち、三回はベッド本体の支柱側に設置されていた右側のストッパーロッドが完全にセットされない状態となつていること及び右再現実験でストッパーロッドが全回とも完全にセットされた状態となつた左側の支柱には本件事故当時紐付きの本件袋が掛けられていたことからすれば、被告乙山が本件安全柵を中段にセットした際、あるいは右側のストッパーロッドが完全にセットされない状態となつたうえ、左側のストッパーロッドも本件袋ないしその紐の存在が完全なセットを妨げた結果、結局、左右両方のストッパーロッドが共に完全にセットされていない状態になつていた可能性も考えることができる。)。

なお、被告乙山は安全柵上部のスライドガイドを両手で持ち上げて中段にセットした後、両手を下方に若干力を加えながら前後に数回柵を振つて確認した旨述べているが、逆に、同被告は、一郎ら数名の子供のために本を読んでいる最中に三一六号室の患者のガーゼ交換が始まつたことに気づいたため、その介助をすべく、急いで一郎らのベッドの安全柵を引き上げた後、その場を離れた旨述べ、また、本件事故後、原告らに対し「柵を上段にすればよかつたが、中段で行つてしまい、もしかしたら片方の柵がはずれていたのかな。」と話をしたとも述べてもいることから、同被告の述べる右確認方法自体が必ずしも十分ではなかつたのではないかとの疑念を払拭することができないし、さらに、ベッド本体の支柱に本件袋が掛かつていたことは前判示のとおりであり、《証拠略》によれば、安全柵のバネが弱つてストッパーが掛かりにくい例が何回かあつたことなどから、被告病院の看護婦が安全柵をセットする際にはストッパーが確実に掛かつていることを十分に確認するよう再三指導を受けていたことなどが認められるのであり、このような事情のある本件においては、安全柵が完全にセットされたことを確認すべき方法としては、本件安全柵のストッパーロッドがストッパーロッド受に完全に掛かつたことを十分に確認することが必要であつたというべきであつて、右被告乙山が述べた方法では未だ確認方法としては不十分なものであつたというべきである。

(三)  よつて、被告乙山には、前記注意義務に違反した過失があるというべきである。

二  争点2(被告大学の過失ないし責任)について

1  被告大学が被告乙山に対する使用者責任(民法七一五条)を負うべき地位にあることは当事者間に争いがない。

2  被告大学の過失

(一) 前掲各事実、《証拠略》を総合すれば、次の事実(一部争いのない事実を含む。)が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(1) 一郎は、昭和六三年四月五日、上腹部悪性腫瘍(神経芽細胞腫)で被告病院へ入院し、同月七日に頭部CT検査(骨及び脳に腫瘍を窺わせる所見はない。)、同月九日に腹部CT検査、などの諸検査や化学療法を受けた後、同年七月五日、右副腎神経芽細胞腫摘出手術を受けた。その後、入退院を繰り返しながら抗癌剤投与等の化学療法による治療を続けていたが、平成元年一〇月一七日、右副腎付近の下大静脈周囲に残存している可能性のあつた神経芽細胞腫切除手術を受けたところ、その段階では既に開腹部に神経芽細胞腫は認められず、また、X線検査などの諸検査によつても他の臓器への転移は確認されていなかつた。なお、頭部CT検査については入院診療録等の診療記録上、最初の入院直後の昭和六三年四月七日に行われた後、本件事故まで実施された記録はない。

(2) 本件事故後の開頭手術の際、一郎の血腫周囲の変色した脳組織を検体として三か所から採取し、病理検査を実施した結果、神経芽細胞腫であることが判明し、平成二年二月六日の司法解剖時にも神経芽細胞腫の脳内転移(右後頭葉部)が確認されているが、原発部位の右副腎付近を含む他の臓器に神経芽細胞腫の存在は認められていない。

(3) 独協医科大学法医学教室教授上山滋太郎作成の被告乙山に対する業務上過失致死被疑事件に関する鑑定書(以下「上山鑑定」という。)では、説明部分において「本症が悪性の腫瘍であることを考慮して、頭部のCT検査がなされていれば、もつと早い時点での脳転移に気付いていたものと思われる。このCT検査の不履行を重大視すれば、誤診ということになろう。」としたうえ、その鑑定主文において「副腎神経芽細胞腫の脳内転移についての医師の不知に関しては、医療水準を厳しく設定すれば、医療過誤に該当するものと考えられ、不測の転移であつたことを考慮すれば、必ずしも医療過誤には該当せず、やむを得なかつたものとも考えられる。」とされている。

(二) そこで、被告病院が本件事故前のより早い時期に頭部CT検査等を実施し、脳内に転移した神経芽細胞腫の摘出等の治療を行わなかつた点に過失があるか否かについて検討する。

(1) 《証拠略》を総合すれば、被告病院が医療専門の単科大学附属病院であつて、その医療水準は全国的にも高レベルの医療機関であること、神奈川県立こども医療センター腫瘍科西平浩一医師等が厚生省がん研究助成金による研究報告書として「脳実質内転移のみられた神経芽細胞腫の1例」と題する書面で神経芽細胞腫が進展した時期ではなく寛解したと思われた時期に脳実質内への転移が認められた症例の存在と治療面における中枢神経系に対する配慮の必要性についての報告を昭和六二年三月付で公表していることなどが認められるが、他方で、従来、神経芽細胞腫が骨、骨髄、リンパ節、肝臓等の全身の諸臓器、組織に転移しやすいが、脳実質内や脊髄内に転移することはない又は稀であるとされていたこと、第二回目の開腹手術の時点において神経芽細胞腫の脳内転移を窺わせるような兆候が存在しなかつたことなどが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(2) 以上の事実を総合すると、神経芽細胞腫の脳内転移が稀なこととされていたうえ、本件において右転移を窺わせるような兆候の存在についての証明がなされていないこと(右兆候の存在についての主張もなされていない。)に照らせば、被告病院が全国的にも高レベルの医療水準を有する病院であり、神経芽細胞腫の脳実質内転移の認められた前記症例報告が本件事故より約二年半前に公表されていたとしても、被告病院が本件事故前に神経芽細胞腫の脳内転移を予見すべき法的注意義務を負つていたとすることは相当でなく、結局、被告病院に頭部CT検査等の実施及びそれに基づく神経芽細胞腫の摘出等の治療を怠つた過失があるとすることはできないといわざるを得ない。

三  争点3(本件事故と一郎の死亡との因果関係)について

1  《証拠略》を総合すれば、次の事実(一部争いのない事実を含む。)が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(一) 一郎は、本件事故前、術後の経過も良好で食欲も旺盛であるなど頭蓋内出血を窺わせる兆候や所見は認められなかつた。

(二) 本件事故直後、被告乙山が三一七号室に駆けつけた際、一郎は、本件ベッド南東側のピータイル張りの床上にうつ伏せの状態から床に両手をついて泣きながら起き上がろうとしていたが、一郎にどこを打つたのか質問したのに対し、同人は、手で右側前頭部付近を指示した。

(三) 牧野医師が診察した際、一郎に腫脹や皮膚損傷などの外傷は認められず、また、頭部X線撮影によつても頭部骨折は認められなかつたが、同人は撮影途中で嘔吐し、撮影終了後帰室したころから顔面蒼白となり、次第に意識レベルが低下し、呼吸が浅表性となつた。

(四) 本件事故後の頭部CT検査の結果、急性硬脳膜下出血、くも膜下出血、脳内出血が確認され、その後、事故当日午後四時三五分から同六時四五分にかけて行われた開頭手術においても右後頭葉部の出血、前頭葉から頭頂葉にかけての部分の出血が確認され、血腫除去手術が行われた。

前頭葉から頭頂葉にかけての出血は転落に基づく脳挫傷による急性硬脳膜下出血、くも膜下出血であり、硬脳膜下出血の出血量は約一〇ミリリットルであつたのに対し、後頭葉部の脳内出血部は神経芽細胞腫が転移したことによる腫瘍内出血で、その出血量は約五〇ないし八〇ミリリットルであつた。

(五) 一郎は、前記開頭手術後も意識を回復することなく、平成二年二月五日午後四時三五分に出血に起因する脳死に基づく循環不全で死亡した。

2  以上の事実を総合すれば、一郎の死因は、本件事故の際、本件ベッドから転落し、右前頭部を病室床面に打ちつけた衝撃によつて硬脳膜下出血及び神経芽細胞腫の転移巣内部の腫瘍内出血が同時に発生したことに起因する脳死に基づく循環不全であつたと認めるのが相当である。

なお、被告らは、脳死の主因は腫瘍内出血であり、腫瘍が存在しなければ一郎は死亡しなかつた旨述べ、本件事故は単なる契機に止まり、一郎の死亡との間には因果関係がないと主張している。

この点について、上山鑑定は、その説明において「仮に腫瘍の脳内転移が存在しなかつた場合の転落の影響であるが、後頭葉の脳実質内のみに出血を起こすことは極めて稀であり、硬脳膜下出血の血液だけを適切な早い時期に摘出するか、出血量が少ない場合には保存的処置によつても一郎の一命を救い得た可能性があつた。」としたうえ、鑑定主文において「死因は……(主として腫瘍内出血)」とし、上山鑑定の作成者である証人上山の証言(以下「上山証言」という。)によれば、「主として腫瘍内出血と記載した理由は腫瘍内出血が最も多量であつたことにある。」旨述べていることが認められる。

しかし、他方で、上山証言によれば、「転落以前に頭蓋内出血が存在すれば、もう少しいろんな症状が出てきたと思われる。また、腫瘍の脳内転移が存在しなかつたとしても脳内出血(量的に少ないとしても)は起こる可能性がある。」旨述べていることが認められる。

さらに、前判示のとおり、本件事故に至るまで一郎は二回目の開腹手術後も食欲が旺盛であるなど経過も良好で、本件事故直後から前判示のような重篤な症状が発現したのであるから、たとえ一郎に神経芽細胞腫の脳内転移があつたとしても、本件事故による頭部打撃が引き金とならなければ一郎に対し前判示のような重篤な症状をもたらすことはなかつたことは明らかであり、一郎の右症状及び死亡は本件事故を直接の原因として発現したものと認めるのが相当であり、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

ただし、後頭葉の脳実質内のみに出血することは極めて稀とされ、腫瘍内出血量が脳実質内では最も多量であつたことは前判示のとおりであるから、本件においては、本件事故に基づく頭部打撲と脳実質内に神経芽細胞腫が転移していたことが併存競合したことによつて一郎をして死に至らしめたものと認めるのが相当であり、単にそのいずれか一方のみが死亡の原因であるとする見解はいずれも採ることができない。

以上によれば、本件事故による頭部打撲が一郎の脳実質内出血とこれに基づく長期入院及び死亡に対し、その直接の原因をなしており、両者の間には相当因果関係があるものといわなければならない。

四  争点4(損害)について

1  一郎の損害

(一) 一郎の逸失利益

一郎が死亡当時満三歳九か月の男子であつたことは前判示のとおりであるが、本件事故当時、神経芽細胞腫が脳実質内に転移していたことは前判示のとおりであり、《証拠略》を総合すれば、神経芽細胞腫の脳内転移の予後が不良であること、そのために仮に本件事故前に神経芽細胞腫の摘出手術が行われ、かつ本件事故が発生しなかつたとしても同人が一八歳に至るまで生存できた蓋然性はほとんどなかつたことが認められるから、同人の逸失利益を認めることはできないといわざるを得ない。

(二) 一郎の慰謝料

一郎が本件事故の約四か月後に意識を回復することなく死亡したこと、一郎の脳実質内に神経芽細胞腫が転移していたことなど本件において認められる諸般の事情を総合考慮して一郎が本件事故によつて被つた精神的損害に対する慰謝料は四〇〇万円と認めるのが相当である。

(三) 相続

太郎及び原告が一郎の父母であることは前判示のとおりであり、《証拠略》によれば、原告が一郎の被告らに対する右損害賠償請求権を単独相続したことが認められ、他にこれに反する証拠はない。

3  原告の損害

(一) 原告の慰謝料

《証拠略》によれば、原告及び太郎が一年半以上にもわたり治療や手術を受けた後、その経過が良好に見えた最愛の息子を突然の転落事故と容態の急変により、意識の回復のないままその約四か月後に失つたこと、殊に原告は、一郎の母として本件事故後意識の回復のないまま長期入院を続けた一郎の看護に努めたが、遂に一郎と死別したこと、原告及び太郎が被告病院に対し、本件事故原因等についての説明を求めた際、被告病院が十分な説明を怠り、謝罪も行つていないこと、また、太郎が警察官という社会に奉仕する職務を遂行するという自己の立場を慮つて本件訴訟当事者となることを差し控えたこと、これらにより原告及び太郎が多大の精神的苦痛を受けたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

右認定事実に一郎の脳実質内に神経芽細胞腫が転移していたことなど本件において認められる諸般の事情を総合考慮して、原告及び太郎が本件事故によつて被つた精神的損害に対する慰謝料は各自につき一〇〇万円と認めるのが相当である。

なお、警察官(当時、宇都宮中央警察署勤務)である太郎が本件事故の真相究明のため弁護士会に相談したい旨上司に話したところ、同人に宇都宮中央警察署長が心配しているのは「マスコミに事件が取り上げられる様な事になることを心配している。」旨言われたこと、本件事故から約三か月経過した平成二年一月一八日の時点で被告乙山の取調べが全く行われていなかつたことなどが認められるが、警察がそのような対応を採つたことが被告らの依頼等何らかの行為に基づくものであることに基礎づけるに足りる証拠がない以上、本件事故に基づく損害として斟酌することはできないといわざるを得ない。

ところで、原告は、太郎が右慰謝料請求権を原告に譲渡した旨主張しているところ、太郎が右譲渡の通知を被告らに行つたことを認めるに足りる証拠はないから、右譲渡を被告らに対抗することはできないといわざるを得ない。

(二) 葬儀費用

《証拠略》によれば、原告及び太郎が一郎の葬儀を行い、原告が右費用を支払つたことを認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はないところ、一郎が死亡当時三歳九か月の幼児であつたこと、一郎の脳実質内に神経芽細胞腫が転移していたことなど本件において認められる諸般の事情を考慮すると、五〇万円を本件事故による損害として認めるのが相当である。

第四  結論

以上によれば、原告の被告らに対する本訴請求は、右損害金合計五五〇万円及びこれに対する本件事故発生日の後である平成二年二月六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法九二条、九三条一項を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林登美子 裁判官 石田浩二 裁判官 桑原伸郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例